真夜中日記

雄弁は銀

創作についての振り返り

 

以前何かの機会で「あまり本を読まない」という話をした時に、「めちゃくちゃ本読んでると思ってた」と言われたことがある

確かに、一応二次創作をやっていて、というかなんとなく自分の中にあるものをこねくり回してある程度読める「話」としてリリースしているし、自分の書いた話をまとめた本も作ったことがあるが、それは全て「文章」という媒体だった

そりゃ文章という媒体で創作をしているのであれば、「この人は本が好きなんだろう」と思われてもしょうがないと思う

ただ、本当に俺は子供の頃から本を読まなかった。本で言うなら圧倒的に漫画を読む機会の方が多かった

 

どの漫画を読んできたかという話をすると、今まで食べたパンの枚数を覚えているのか?という質問と同じになってしまうので、どんな文章(小説とか)を読んできたかを数える方が早いだろう

あくまで記憶の中で探ることになるが、まあ読んだけど覚えていないという記憶にすら残っていない文章は読んでいないと同義と判断して、それを踏まえて最古に読んだ小説は「ハリー・ポッターと賢者の石」のはずだ

調べてみると日本語版の発刊は1999年で、俺が9歳、まあ小学校3年生くらいと考えれば確かにその辺だったような気がする

 

記憶を呼び戻すとすれば、はっきりした記憶があるのは大体小学校1年生くらいで、小学校に入学する時に当時最新だったニンテンドー64が発売されて、入学となればそれを買ってやる(小学校受験だったので)と父親に言われたことをよく覚えている。

結果受験に成功した俺は見事ニンテンドー64とマリオ64を手にして、ゲームにのめりこんだ。そこですっかり虜となってしまった俺はその後発売されたポケットモンスター緑にも没頭、有名どころのゲームは大体手を出しているはずである

当時はこのゲームと並んで漫画も台頭していたので、周りの友達も熱中していた。だからと言ってはなんだが、本を読んでいる暇もなかったし、定期的に訪れる読書感想文という意味のわからない宿題をこなすために適当に選んだ小説(のようなもの)を読んで適当にそれっぽい感想文を書いていた気がする。

確かうちは小学校の夏休みの宿題が選択制で、ポスターか読書感想文か書道みたいな感じになっていたので、一番楽だと考えたのが読書感想文だったわけで、まあその程度くらいにしか活字だけの本には興味がなかったのだろう

本と言えば漫画をよく親にねだったものだし、あんまりにもゲームと漫画だったので親から幾度となく叱られた記憶がある。親から直接言われた記憶はないが「ゲーム(漫画)ばかりだと馬鹿になるよ」という通説はよく聞いていた

 

そういわれても、俺には活字ばかりの本の何が面白いのだろう?という疑問は子供のうちに答えは出なかったのである

 

そんな生活を送ってはいたが、ハリー・ポッターシリーズはあまりに周りで流行っていた

当時通っていた塾の先生がこのハリー・ポッターシリーズに大層熱心だったので、是非読んでみなさいと勧められた記憶がある。この塾の先生はいまだに付き合いがあり、基本的には優しいが違う部分はちゃんと叱る、怒るでなく叱るという方だったので、当時から好きだった。それもあってハリー・ポッターシリーズは読むことにしたような気がする。

曖昧だがその話を親にして親が誕生日かクリスマスプレゼントか何かで買ってくれたような記憶もある。「本かよ・・・(つまりゲームとかがよかった)」と思ったような記憶もあるので、まあもらったし読んでみるかという気持ちだったような気もする。嫌な子供だ。

 

とはいえ今でもそれが最初に触れた本だという記憶は残っているので、そこそこにハリー・ポッターシリーズは読み進めた。なんだかんだで続刊も読み、炎のゴブレットくらいまでは読んだ記憶がある。逆に言えばそれ以降は読んでいない。

確かに続刊を親にねだった時は幾分かスムーズだったような気もする。ゲームをねだるときと比較してだが。やはりゲーム<活字の本という不等号が世の中にはあるのだろう

 

ただし、そこから真夜中深夜が活字ばかりの本に没頭するようになった………ということはなかった。

その後読んだ本として覚えているのは小学校6年生だかの時に読んだ「秘密室ボン」という小説だ。今調べてめっちゃ懐かしい

これを読んだ動機というのも当時好きだった女の子に貸してもらったからというなんかもう今と何も変わってねえじゃねえかという動機なのだがまあそういう理由で読んだ

内容は正直あまり覚えていない。確か男が暗闇の密室に閉じ込められて、ゲームマスターのような男にヒントを出されつつ脱出を目指すみたいな話だった気がする。まあせいぜい当時好きだった子と接点を持つために読んだくらいのものだろう

 

その次に覚えているのはバトル・ロワイヤルの小説版。これは確か中2くらいだったか。何故か教室の共通文庫の中にあって、思春期真っただ中でそういう過激なものを読みたいという意識があったのか、特にバトル・ロワイヤルを読みたいという気持ちがあったわけではないが、同級生の中では順番待ちをするほどの人気だったので手に取ってみた、とかそんな感じである

これについては意外と内容を覚えていて、というか面白かった気がする

まあ当然過激な描写も中にはあったが、当時の俺でもそこまで過激というほど過激には感じなかったし、ドキドキハラハラを求めて結構な速さで夢中になって読んだような気がする

 

そして当時からすでにオタク気質、今になって思えば美少女主義みたいなものになっていた俺はライトノベルを読み始める

多分ネギま!に傾倒し始めた時期だと思うが、その頃は「涼宮ハルヒの憂鬱」とか「灼眼のシャナ」とか「ゼロの使い魔」とかが出てた時期のはずなので、ハルヒとシャナは読んだ。ハルヒは多分全部読んでる。シャナは面白くなかった。

そう思うとハルヒ化物語シリーズを読む前にハマっていたので自分の文章に結構影響を与えているような気がしないでもない。多分俺が当時やっていたサイトで書き始めた小説もそんな感じだった気がする。

今もネットの海にさまよっているかもしれないがそれを掘り起こしたくはない。所謂黒歴史というやつだ(一応検索をかけたが見当たらなかった、よかった

とは言ったものの、今の俺がやっていることはその黒歴史と同じようなことで、変わったことと言えばそれを俺が恥ずかしがらなくなったというだけのような気もする

 

あと確か中学くらいの時に「活字の本を読むのはかっこいい」と思ってブックオフかで「グロテスク」という本を読んだ気がする。内容は全然覚えてない。主人公の女性が、男性と話すときに自分と男性の間に子ができたとしたらどんな子だろうと考えるのが性癖だみたいなことを言っていた気がする。

 

そしてその後大学になってからか?アニメで偽物語を見てハマり、原作を全て読み、そこから創作でも西尾維新をオマージュしたようなものをやっている、というようなざっくりした本の経歴になる

今まで話した本を全部合わせたとしてもせいぜい20冊くらいのもので、世の中には一か月で10冊とかそれ以上くらい本を読むような人もいるという話を聞くと、俺が読んできた本の数なんて屁のようなものだろう

 

それなら何故創作をするときに小説を媒体を選んだのか?という話をすると、それはある種の「逃げ」だったと言わざるを得ない

というのも、元々俺はイラスト方面で創作をしたいというのがあった

考えてみれば至極当然のことで、ゲームや漫画、ビジュアル的なものに触れることが多く、さらにかわいい女の子が好き、となれば普通は絵を描くだろう

そしてそれをHPという媒体を通じて公開し、ちやほやされたいと考えるのがまあ通常だし、自分でもそう思った

さらに言えば友人に絵を描く人間が多かった。セメントはその最たる例だが、友人に物書きを中心とした創作をする人間は当時いなかったような気がする。いや、もしかしたらいたかもしれないが、多分俺はそれを読んですらいない。

そして見様見真似で俺は絵を描くという行為をスタートするが、これがまたうまくいかない。

今となってはある程度、本当にある程度描けるようになったとは思うが、自分の中で納得がいくものはたまーにしか描けないし、描けたといってもせいぜい人物一人か二人だ。それ以上の絵は描いたことがない。漫画なんてもってのほかで、読むのは好きだが描いたことはない。

それなのに今も液晶タブレットは持っているし、なんなら当時ペンタブも買った。練習という練習は多少やってきたが、まあ絵を描く人間からすればそれこそ屁のような練習量だったし、自分の中でも部分的に必死になって練習した日はあれど、その時興味があること、例えば楽器だったりスポーツだったり、その辺に夢中になってたまに気が向いた時にやるくらいだったと思うし、今もそれはなんら変わっちゃいない

 

なんとなく自分の中で「自分の好きな子は自分で上手く描きたい」という心理があって、好きなキャラについてはそれなりに描けたりするし、よく言う「真夜中深夜との絵」についてもできれば自分で描きたいと思っているが、悲しいかな力量が追い付いていないのが実情だ

しかし俺としては自分の好きな子の話はしたかった。さらに言えば自分がいかにその子のことを好きで、いかにお似合いであるかを周りに誇示したかった。それをするためには自分の絵の上達を待つのはスピードが遅すぎたのだ

そうなると、スピードが速いのは文章だった、それだけの話である

 

中学生くらいの頃、ネギま!のキャラでめちゃくちゃ惚れた子がいた。そして俺はその子の話を当時のSNSにある絵チャットの中で存分にした。

絵を描けない立場(というか自分で納得できなかった)ので、絵チャットと言えど俺が絵を描くのは時々だったような気がするが、とにかくよくしゃべった。ノートパソコンを親父からおさがりかでもらったので、そこで夜な夜な自分とキャラの話、最近認知した呼称で言えば「夢小説」というやつをはちゃめちゃに披露した。

ありがたいことにそれを容認してくれた人は多く、その友人関係は今も続いている(人もいる)。それが当時は楽しかったし、数年前までやっていたモバマスのキャラについて話すものなどそれがルーツであるのは間違いないだろう

 

そんなわけで、絵を描くことが自分の創作に対する優れた媒体、やりたいことだったのが、自分の怠慢によって実現せず、手っ取り早く、さらに賞賛もされた文章というものに形を変えていったというのが変遷ということになる

 

そして社会人になりかけの頃だろうか、それくらいの時期に「自分の中の感情や思っていることを出力するために、自分とキャラを登場人物として物語を描き、それに感動する人がいればうれしい」という考えに至り、そこからやっと「俺は小説を書く方が向いてるのかもしれない」と自覚したというわけである

 

特段小説家になりたいと思っていたわけでもないし、正直絵に比べれば文章の方が遥かにSNSに対して弱い、つまり目に付く率が低い、つまりつまり褒められる率が低いということも承知しているので(そうじゃないと思ってる方にはごめんなさい)、そういう面もあってその考えに至るまでかなりの時間を要したのだと思う

しかし西尾維新物語シリーズに触れて、「文章だけでもここまで人を笑わせたり、感動させることができるのか」と感銘を受けて、心のどこかで文章を馬鹿にしていた俺はその考えを改めることにした、と言えば恰好は付くかもしれない

 

まあ元々キャラの話についてブログでつらつらと語ったりはしていたので、それをきれいにするというか、なんかこう読んでもそれっぽくなるような形に作り替えたのが「あきはラビット」「きらりスター」「とときナンバー」ほかの創作になっているというわけです

 

 

というのが振り返りみたいなものになりますが、京極夏彦さんの魍魎の匣を読みました

これは嫁からおすすめされたというのが読み始めた動機で、京極夏彦さんは名前しか知らなかったです

 

その貸してもらった本は俺が知る中で最も分厚い文庫本で、今見ると1000ページが一冊になっているものだからもう見ただけで割とうんざりするボリューム

実はというとなんですが、1年前くらいに一度トライして10分の1くらいまでは読んだのですが、そこから興味が持てず、ずっと読んでなかったんですな

それを最近読み始めて、一週間くらいか?それくらいかかったけど今さっき読み終えたということです

 

それでいうと最近あれだな、空飛ぶタイヤは読んだな

これは長瀬智也が映画に出てるってので興味を持ったけど結局映画より先に小説を読んですっかりハマった、みたいな感じです

その流れで魍魎の匣も読みましたが、まあすさまじい話でした。

 

さっき言ったようにボリュームが半端じゃないと思うので、いや空飛ぶタイヤの上下巻を合わせればそんくらいか?にしても長いし登場人物も多いし、内容がディープというか世界観を理解するまでに500ページくらいかかるので前半で辞めちゃう人が多いんだろうなあみたいな印象でした

 

 

読んでみて思ったのは、きっと本でもなんでも「読むタイミング」ってのはあるんだろうな、ということ

多分だけど、この魍魎の匣を5年前に俺が読んでいたとしても記憶に残ってないような気がするし、内容が理解できなかったような気がする

それを今読んですげえ話だと思い、こうやってそういや文章ってのものはそこまで読んでこなかったなという振り返りを書きたくなってるから、決められたタイミングってのはあるのかもしれない

そして読書感想文ってやつも「感想を書くために読む」んじゃなくて「読んでから思ったことを書く」というのが源流なんだろうなと改めて思った

でも思ったことをストレートに表現するって恥ずかしいものだし、それをちゃんと飲み込んだうえで表現するってのはもしかしたら結構精神的に成熟しないと難しいのかなあと思いました

 

結局魍魎の匣の感想文ではなくなりましたが、なんとなくアウトプットできたので終わりにします